すたらブログ

文系Webプログラマの備忘録

麻雀を打ち続けて気づいたこと

過去記事: 鬱予防に麻雀を続けることにします


健康麻雀のお店に通い続けて、ネット麻雀を打ち続けて、不用意な捨て牌で負けて後悔するたびに「全体を見渡さなきゃ」「いつでも撤退できる心構えでいなきゃ」と反省点をテキストファイルに書き残すけれど、やっぱり次のゲームでもミスをしてしまう、ということの繰り返しです。

ゲームの前にそのメモを読み返して「よし、これを頭の中に留めておこう」と意識していても、ゲームが進んで余裕がなくなるとすっかり忘れて、振り込んだ後で「あの反省点を忘れてしまっていた」と気がついたり、「分かっていたけど手が止まらなかった」ということばかりです。

成長もなく同じ過ちを繰り返してばかりで、麻雀を打つのが嫌になることもあります。
しかし、ふと、「急かされると判断が狂ってしまうのだ」という当然のことに気づきました。

周囲の人や状況から急かされても、どっしり落ち着いて判断できるのが理想です。
しかし、今の私にはとても無理です。ならば、

  • 切迫した状況を招く行動を取らないこと。
  • 切迫した状況になりやすい場所に近づかないこと。
  • すでに切迫した状況にあると気づいたら一旦その場から離れること。

これが、日常生活で今すぐできる最善の対策だと思います。

日常生活では「今しかない。チャンスは一度だけ」なんてことは少なく、後から付け加えたり訂正したりできることの方が多いです。
安易に退路を断って自分を追い込まず、気長に到達を目指す姿勢を習慣づけられれば、切迫した状況をより避けやすくなると思います。
なお、麻雀には逃げ場はないのでおとなしく負けて落ち込んで、「私は焦るとこれほど間違えてしまうのだ」ということを何度も肝に銘じるつもりです (-_-;)


もうひとつ、「私はギリギリを攻めたがる性格だな」と気づきました。

夕方から雨が降る予報だけど「帰宅までギリギリ持ちこたえてくれるだろう」と傘を持たずに出勤したり。
車を運転していて左折するときに壁際ギリギリまで寄せたり。
麻雀でオリてるのに、3人共通の安牌から切らずに立直者だけの安牌から切ったり。

何か境界線が見えると、その限界ギリギリまで寄ってみたくなります。
たしかに、傘を持たなければ身軽になります。
壁をこするギリギリで曲がれば時間短縮になります。
しかし、一歩間違えれば雨に濡れ、車体が傷つき、気持ちは大きく落ち込みます。

軽い傘の持ち運びに実際どれほど苦労しているのか?
一般道の曲がり角をギリギリで曲がってどれほど時間を短縮できるのか?
よく考えればギリギリを攻める必要なんて全くないのに、なぜか危険に見合わない小さな利益を求めてしまいます。

上の過去記事でも述べたように私がドケチなせいもありますが、「まだ大丈夫、まだ頑張れる」という強がり、やせ我慢、律儀さとも関連していると思います。
だからこそ、根深くてなかなか改められないのでしょう。

「ギリギリいけるかな?どうかな?」と悩みはじめたら、それは失敗とその後の鬱の前兆なのだと強く認識する、というところから修正を図りたいです。


正直、今は麻雀を打っててもあまり楽しくないです。
気をつけていても危険牌が止まらなかったり、小さな選択ミスを気にしたり…。

しかし、上に挙げたような多くの気づきをもたらしてくれることも確かです。
以前は数ヶ月間の鬱を経なければ気づかなかったことを短期間で教えてくれるので、とてもありがたいです。

また、世の中には楽しく麻雀を打っている方も大勢います。
私も20歳で始めたばかりの頃は、とにかく面白くて仕方がなかったです。

麻雀と人生は似ているな、と感じることが多々あります。
今後も自分の歪みや偏りに気づいて修正して、いつか、勝敗を超えて人生と麻雀を楽しめるようになりたいです。